活字を拾う夢と「風太くん」

ヨダレ弟のパートナー、イラストレーター・美術家のマツバラリエさんが出展するという事もあり「活版を巡る冒険展」にいってきました。(CNTEXT−S 6月13日日曜日19時まで)ひなびた感じが懐かしい商店街「パールセンター」をずいっと進み、かまぼこ屋さんをまがったところ。ギャラリーのCNTEXT−Sは小さな木の民家を改造した温かみのあるスペースでした。出展者は石上照美さん(陶芸家)大友克洋さん(ご存じ漫画家)坂崎千春さん(スイカのペンギンでおなじみ イラストレーター 絵本作家)高橋和枝さん(イラストレーター)中島たい子さん(作家)そしてマツバラリエちゃん。リエちゃんはすごい美人でヨダレ弟が我が家につれてきたときみんなで息をのんだものだった。そのリエちゃんが会場(なんか縁側のある板張りのお茶の間って感じでほとんど外に開かれていてそれがすごいいい)でお茶をいれお客様と話していた。その他にも美女が数人いた。「大友克洋!」と興奮して一緒にきたムスコ、絵が描くのが大好きなムスメはちょっと緊張している。俺たちはお茶の間をぐるりとヒトめぐりしました。

6人の作家が2点ずつ出品。大きさも文庫本を開いたサイズに統一というシンプルさがとてもいい。みんな活版印刷という魅力的だがへたをすると消えてしまいそうな手法をつかって冒険しながら何かを表現している。きりりとしている5人の冒険者たちだが、彼らは愛らしい活版くんのよさをけさないようにすごく繊細に探検しているのである。リエちゃんは卵のパックに使われているあのごわごわした紙を使って活版技術でリトグラフ(?ごめんこの表現でいいんだよね)を作成している。弟がちょうど実家にきてたときリエちゃんから電話があり「紙に色がのらない」と苦悩してた様子だった。あの苦労がこの冒険だったのか・・確かにこの紙は冒険だ。でも人間の手がひとつひとつの文字にかけられている活版くんとこの素朴な厚紙をあわせたい気持ちはとてもわかった。湿地のようなところに黒犬がぽつんといる風景がとてもいい。30枚しかすれなかったその絵を一枚おみやげにかいました。

そして興奮したのは中島たい子さんです。申し訳ないんだけど持っている本はまだ数冊で、でも文芸雑誌でその小説を読むたび「おもしろい人だな。好きだな」って思ってた。その中島さんがどういう出展をするのかとても興味があった。だって他作家はビジュアルで一流のひとばかり。そんな中でどうするのか。なんと中島さんは朝から印刷所にはいり、ひとつひとつ活字をひろいながらその場でライブエッセイをつくっていた!行間のことを印刷用語で「インテル」というそうだが、必死になって活字をひろいながら「インテルはいってない!」といったり、臨場感がばしばし伝わってくる。文庫本見開きつくるのに朝9時から夕方5時までかかったそうだ。活版の活字がずらりと並ぶ壁面の壮観さは俺はわけあって知ってるのだった。そのなかで自分の言葉を「ええと・・」っていいながら拾っていく。そしてなおかつお話をつむいでいく・・それって大変だけどすごく興奮する作業だったんじゃないだろうか。俺もやってみたい!そんなことを考え付いた中島さんはすごい!そして額縁に収められたまだインテルがない活字たちはすごくきれいだった。「これいいなあ。中島さんいいよね」っていってたら何とそばに中島さんがいた!りえちゃんが紹介してくれて「ああ!」って喜ぶ。美女のひとりが中島さんでした。印刷所の様子を収められたアルバムをめくりながら中島さんはその時の大変さ、喜びを丁寧に説明してくださいました。ものを書く人はやっぱり文句なく活字が好きで、特にこうやってみてみると、わずかに手触りに凹凸がある活版活字が大好きなのである。中島さんが印刷した紙に触らせてくれ「いい!やっぱり!」ときゃーきゃーしてしまった。とてもいい時間をすごせました。ただ活版はもう後継者もあまりおらず絶滅動物めいておりとても心配だ。やはりきいてみるとオフセットより断然印刷代が高い。作家の方で自分のためまたまわりの関係者のためだけに「限定版」をつくる時、活版印刷を使う方がいるそうだ。あと詩集などにも需要があるらしい。詩集・・そうやっぱり厳選された言葉をあらわすために人の手で拾われた活字は、もうもはや美術の領域に達しているのでした。

そんなすてき時間をすごした俺だったが、来る前に阿佐ヶ谷駅のホームからみた変な看板も頭からきえていなかった。「たち呑みや風太くん」・・そこには立ち上がったレッサーパンダらしきものが酒を飲んでいる絵があり、横にきっぱりと「直立不動でお呑みください!」と宣言されていた。駅から2分ということで、俺はいやがるこどもたちを連れ、その方向を探索した。そしてみつけた!3時だったがもう営業していた。恵比寿ビールの提灯がたくさん飾られていたが、その提灯のエビスという文字にすべてマジックで×がつけられていて、その横にとてもひどい字で「サッポロ」とかかれていた・・これは・・いったい。「エビス売ってないなら、提灯外せばいいじゃん」こどもたちがつぶやく。いったい何があったのか憎しみすら感じるこのパフォーマンス。今日は残念ながら入らなかったが「風太くん」・・とても気になるので今度入ってみたい。活版組の古い文庫を読みながらサワーとかのんでみたいものだ。昼間から。

立呑風太くん

食べログ 立呑風太くん

読みました。(自慢)

1Q84 BOOK 3

すいません。ベタな話ですが1Q84 3読み終えました。1.2読んだとき「本酒俺」のために酒という観点だけでみた1Q84読了記書いて、そんで全然「本酒俺」でなくて、ちんけな雑誌ひとつだせないうちに春樹先生は偉大な作品の3をおだしになってしまった!!!(頭をかかえる俺)なので「じゃあ3でたらすばやく俺も続読了記かいて雑誌だすね!」とかなかば言い訳にして日々をすごしていた。

一番恐れていたことは酒のさの字もでないのではないか(3のなかで)ということだったが、さすが酒作家村上先生。1、2と比べて登場は少ないもののきちんと酒は重要な役割をはたしていた。一番印象が深かったのは、俺が今回とびきり気にいった登場人物が、すごくここでウイスキーロックを呑みたいのだが、呑まないというところの心理描写で、この1行があれば、俺も読了記かけるってもんだね。と安心。また酒のでてるところすべて抜きがきしてなんだかんだ週明けにかくつもり。さあこれで雑誌ださないいいわけがなくなったので、本当に腰据えてやるぞー。しかし3を読むと4がよみたくなるよ。すごく。「続く」感がすごいです。途中まで重くてきつい山がこの602頁の本にいくつもつらなっていますが、がんばって読むと「おもしろかったー」が待ってますよ。最後には恋愛小説が待ってますよ。全国の「今読んでてなんだかなー」のみなさまがんばってください。山をこえればそこには「ノルウェイの森」が開けますよ。

酔っぱらいフィンランド

わたしのマトカ (幻冬舎文庫)


最近自分が何をしたいのかわからなくなりもんもんとしている。

昨年夏ごろから「本と酒と俺」というリトルプレスをだそうとおもいたち牛歩の歩みですすめているのだったけどいざ原稿が結構集まりもうできるかもという段階になると「このままでだしていいのか」とか「おもしろくないんじゃないか」とかぐずぐずとすすまない。雑誌の体裁を整えるためには、細かいつめがいろいろ必要だしまだまだ発行には日が必要だけどあんなにもえていた「出すぞ!」という気持ちが盛り上がらない毎日。友達に誘われてツイッター始めたり何かそういうことしてるんだが、ツイッターでつぶやいてみたところで別に大きな世界が広がるわけでもなく、久しぶりの友人がみつけてきてくれてうれしくはあるが今日の夕飯などをつぶやくより何か他に書きたいことがあったかもしれない・・そもそも「本と酒と俺」とだしたいと思ったのは、本の中の酒(登場する酒や作家の酒の正体など)をいろいろ書き散らかしたいというのが本質動機だったので、やはりもっとそこにたちかえらなくては。とめずらしく真面目に考える。そいでそうだよこの本だよ。とブログにたちかえる俺だ。この気持ちを「本と酒と俺」に込めたい。

「わたしのマトカ」(幻冬舎文庫
かもめ食堂」は食べ物がおいしそうで、マリメッコのデザインがかわいくて女子心をくすぐる(俺でさえも)すてきな映画だったがその出演者片桐はいりさんが書いたエッセイだ。映画「かもめ食堂」は宝くじにあたった日本人女性がフィンランドにわたり食堂をひらく物語でオールフィンランドロケでつくられたのだが、そのロケの日々を片桐さんはていねいに独自の視点で書いている。マッサージに挑戦したり、農場ステイをしたり奇妙なクラブで酒を呑むなんてエピソードもあるし酒率はまあまあの内容ですが、とにかくフィンランド人・・酒が好きらしい。というか俺はそのことを知っている。フィンランドにいったことがないのになぜかよく知ってるのだ。

本当にチケットを手配してくれた旅行代理店さんには感謝しているのだが、「安いのがとれたから」という理由でフィンランド航空でロンドンにいったことがあった。かなりレアなのではないだろうか・・フィンエアでロンドン・・。俺はその時フィンランドには何の知識もなかった。ただ安くとれたという理由だけでフィンエアにのった。そしてフィンエアは半端なかった。酒が大事にされている加減が。ちんけな世の中になった今はどうだかわからない。しかし俺がフィンエアにのった15年前は、フィンエアの食事では食前酒・食中酒・食後酒がていねいにでた(エコノミーでですよ。もちろん。全部ただですよ。もちろん)まずビールやジントニックとかをいっぱい飲むと今度は食中には新たな酒としてワインがでた「赤にしますか?白にしますか?」といわれ選択した俺だが、そのとき驚いたことはまわりのフィンランド人が(フィンランド人乗車率が高かった)ほとんど全員「何いってんだよ。両方だよ」といって2本もらっていたことだった。俺の飛行機体験でそんなことは初めてだった。俺も2回目にはもちろんそうした。
スバラシイと思ったから。心から。
食事をしているとき隣のおじさん(もうかなり酔っぱらっていて楽しそうだった)が話かけてきた。「君は日本人なのに珍しいねえ」「?」「いやジントニックだよ。ジントニックばかり呑んでるじゃないか。日本人はほとんど水割りを呑むんだけど、君はすばらしいねえ。ジントニックは素敵なお酒だよね!」そんな風にほめられたのは初めてだったが、何かとてもうれしく自分が特別な日本人になった気がした。おじさんは東大で何かを教えてるたしかったがよくわからないが、酒好きということはわかったので、お互いアドレスを交換した。そしてますます道中ふたりで盛り上がって呑んだ。そして食事が終わったら、何種類かの何かラズベリーとかそういう果物やハーブみたいのが配されたリキュールがでた。おしゃれだが、フィンランド人はそれももちろん全種類呑み倒すみたいな感じでやっつけていた。この人たちっていったい。俺はそんな空気の中遠く欧州まで飲み続けた。本当にすばらしいフライト。そしてヘルシンキ空港についた!飛行機が無事着陸したとき多分ほぼ全員よっぱらいのフィンランド人たちはみんなで歓声をあげて割れんばかりに拍手をした。着陸して拍手。15年前であろうと田舎のプロペラ飛行機でもありえないことだ。俺はフィンランド人はすばらしいと確信した。ヘルシンキはトランジットだったがもうロンドンなんていきたくないほどだった。ここでおりたい。予想通りロンドンはつまらなく、俺にとってこの旅はフライトが一番のすばらしい思いでになった。どこかのアリタリアとは大違いである。「わたしのマトカ」を読んでいると背景には常にあの割れんばかりの拍手があった。フィンエアの酒度は今も健在だろうか。

あとはジム・ジャームッシュの何かのオムニバス映画で、フィンランドの酔っぱらいがでてきたことがある。大雪の中よろよろとお互いをささえあって歩く酔っぱらい3人組。雪の中彼らはどっと倒れる(陽気なまま。何かを叫びながら)俺は「しん」と静まりかえる映画館でうれしくて楽しくて大きな声で笑った。ああ、フィンランド人がいる、と思って。
誰も笑わず俺の笑い声は異様に響いた。あとで友人に恥ずかしかったと責められた。

「それにしても、昼間はおとなしく内気で無口な人たちがなぜ夜になりお酒を口にしたとたん酒瓶を割りグラスを放りだしてとぐろを巻くのだろう。しかも彼らが荒らして無法地帯のようになってしまったヘルシンキは、翌日、少なくとも週が明けるまでには、必ずもとの塵ひとつない、北欧デザイン最新国の首都の顔に戻っているのだ。誰がいつどうやって、あの町中に散らばる大量のガラス片をかたづけるのだろう。月曜の朝のヘルシンキときたら、お酒?なんですかそれ? みたいなとぼけ方なのだ」−「わたしのマトカ」より。

ヘルシンキに行きたい。週末にいって騒いで月曜のすましたフィンランド人をみてみたい。飛行機では酒瓶が割れることなく何よりだった。

君は唾液酒を吞めるか?

グレートジャーニー 人類5万キロの旅 1  嵐の大地パタゴニアからチチカカ湖へ (角川文庫)

酒好きの自分のひとつのテーマとして、「ひとが何かを噛んでつくった酒を呑めるか?」という問題がある。繰り返し考えてきたテーマだ。というのは俺は世界の冒険ノンフィクションを読むのが好きだ。アマゾンとか東南アジアとかアフリカとか・・。(すみません、アバウトで・・)そういう地域の原住民と裸でつきあう。大事な食糧を客に出すのは現地人の最大のもてなし。冒険者たちは、喜んでそのもてなしを受ける。イメージとしては、大きく燃え上がるかがり火、それを囲む現地の人々と中央に座る長老、長老に続く良席に座る冒険者、火の上でじりじりやけるのは、野ブタとか大きな猿とかそんな感じの貴重な獲物、もちろん芋虫など大切なタンパク源である昆虫も笹の葉とかに包まれあぶられでてくる。そしてもちろん酒!村あげての宴会にはもちろん酒!そしてその酒は・・女たちが木の実などをよくかんで「ぺっぺっ!」としてどろりとした唾液をつぼにたらしつくった「秘酒」にきまっている。ここで俺は苦悩する。人はどうなんだろうか。俺は本を読むときにはいちじるしくその本の世界に入り込む。自分が完全に主人公になってしまうのだ。そこで冒険ものの読書のなかで必ず苦しむ。ああ・・どうしたらいいんだろう。人の唾液が大量にはいった酒・・でも酒だ。苦しい冒険の末に解放された宴会で呑む酒・・酒も飲みたいしせっかくのもてなしを断るのも辛いし怖い・・。どうしたらいいんだ・・。冒険ものの現地人と触れ合う話だと怖いくらいのパターンででてくるこのシュチュエーション・・。この酒は俺は呑めるのか・・。 

俺は実は「人が使った食器」が苦手だった。小さいころは絶対に自分の食器でなければ無理だった。家族のものでも人の皿やましてやコップからでは飲食できない。出産育児をしたりした経験でかなりそのへんは緩和され、今はだいぶ大丈夫になった。家族の皿でも食べられる。しかし数年前に「お弁当たべそこなったから食べて」といわれ友人に手作りの弁当箱(いつも友人がつかっている)をわたされ、それを食べるのにちょっと苦労したこと。そしてごく最近だが、社食の味噌汁のお椀の呑み口がいちじるしくはげていて、「ここにいろんな人の口がついたんだなあ」と思ったらどうしても食べれなくなってしまったこと。とごく最近もその余韻は残る。そこにはかなり「唾液」が関連していると思う。思い出せば5歳違いの弟が赤ん坊のときものすごくよだれをたらしていた。5歳の俺はそれがいやでいやでだまらずそこから「人の食器はいや」というのが生まれてしまったのだった。そんな「唾液がいや」の自分が唾液酒を呑めるのだろうか。でもキスは大丈夫なんだよね。ディープでも。唾液をどんどん交換しあうディープでも。とふと思う。むしろ好きだ。この矛盾。だったら酒も大丈夫だろうか。考え方さえ変換すれば・・頑張れそうだぞ、冒険してる俺!しかしうまいのかなあ・・。

つまり何がいいたいかというと、関野吉晴さんの「グレートジャーニー1」(角川文庫)を読んでまたその苦しみの決断にさいなまれたわけなんですよね。昨日。本書は「人類5万キロの旅」という副題がつけられている。我々の遠い祖先新人類は700万年前にアフリカで生まれたといわれている。「そして彼らはアフリカ、アラスカを通って、南米大陸パタゴニアに至る5万キロの大旅行に出発した。」と吉野さんは本書で書いている。吉野さんは、このルートを逆に南アメリカからアフリカまで自分の足・カヌー・自転車など人間力のみで、進んでいこうと決心してそれを実行した人だ。俺はこの偉業を「すごい」と思っていて憧れ尊敬している。しかしこの冒険をTVではみたが、写真集であった著書はちょっと高くて買えなかった。それがこのたび心の友「文庫」になって、ようやくじっくり読めるようになったというわけです。そしてやはりアマゾンの唾液酒はでてきた。おはー。「オビラキはユカイモから作る。女たちがゆでたユカイモを口の中でかみくだき、つばとよく混ぜあわせて容器にはきだす。つばに含まれる酵素がイモを醗酵させて、三日ほどで酸味のある酒ができる。」(本書より)おはー。どうしたらいいんだろう・・ちょっとイメージ的にはマッコリみたいな感じですよね。マッコリ大好きなんだけど・まあ、目をつぶって呑んでみるか!酔っちゃえばわかんないかもだしね。

 毛虫のはいったテキーラを「いやだ」と心底いっていた人がいたが、俺は全然平気だ。猿の丸焼きも大丈夫だと思う。しかし唾液に対しての恐怖は深い・・人にはそれぞれの感覚の違いがあるものだ。ところで俺は「グレート・ジャーニー」を1、2巻と買ったつもりで、1巻を唾液の恐怖を超えておもしろく読み終え「さあ、次!」と2巻を手にとったところでそれは1巻だった!!!同じ本を2冊かってしまったのだ。なぜそのことを言ってくれなかったのか。文教堂新横浜支店レジ嬢!!俺は絶対仕事上の規範としてそういうお客には声をかけるぞ!(自分を見るようだから)だめだな!レジ嬢!・・とてもしょんぼりしてます。レシートも捨てちゃったし・・まだ2巻かってないです。早く続きが読みたいです・・。

悲しい記憶への旅 トール&アキごめんなさい

 

グランドファーザーズ

食べログ グランドファーザーズ

 
 哀しく辛い二日酔いの一日でした。身体の辛さより失った記憶を探る辛さに身をさいなまれ・・昨日久しぶりの泥酔。道に何度も寝転がった俺。足が動かず膝からくずれおちる俺。それを支えるトールくんとアキちゃん。そしていつのまにかなぜかそこに夫と娘も加わっていた。マンションの前で4人が俺を囲むの図。そして俺は大地に寝ている。何だろう・・一昨日50になったというのに・・ひどすぎる。フラッシュバックする記憶の画面。ああ、もう消えてしまいたい・・。大好きなトールくんとアキちゃんに呑みに誘われてとてもうれしかったんだっけ。「山家」で呑んで「グランドファーザーズ」でバーボンを入れた。サウンドオブサイレンス(トールリクエスト)が店に流れ「おお!」と盛り上がって・・それから記憶がない・・何だろうか。いつもあの店でやられる。カウンターで吐いたこともあった。それなのに受け入れ続けてくれたあの店に自分は何か迷惑をかけただろうか。トールくんとアキちゃんは遠く横浜の田舎まで夜中送ってくれてあのあと帰れたのだろうか。俺が「泊まっていけ」とゴーインに連れてきたのではなかったか・・

 1時までベッドで眠りつつも悶々として、しかしもうこれ以上眠れないと起き上がり・・寝ることで立ち向かうことから逃げていた俺・・勇気をもって確認開始。第一発見。床に「バッグ」。あった・・中を探る「財布」。あった・・「携帯」あった・・これだけでうれしくてくずれおちる俺。十年以上前、バッグまるごとなくしたことあったっけ・・1週間後にごみばこに捨てられてるの発見されたっけ・・。さらに「財布中身」確認・・あまり金がへってない・・ああ、トール&アキちゃんごめん。俺金迷惑かけた?・・どんよりとしながらコーヒーを入れる。そして汁ものをとるべくカップラーメンをつくる・・のろのろ。これまで何度こんな気持ちをかかえながら汁ものを食べたことだろう。なぜいつも切なくなるほどに汁ものを食べたくなるんだろう。そして大量の麦茶摂取・・しばらくじっとしてここで身体の声をきく俺。アルコール被害が激しい時はここでさらに恐ろしい吐き気にまみえることになるのだが、今日は大丈夫そうだ。そうなると今度は風呂だ。風呂掃除して第2の回復ツールを作る俺。温泉のもとは今日は「白骨温泉」だ。「消えてしまいたい」といいながら着実に復活への道を探っている俺。そして、泣きそうになりながらアキちゃんに電話。やさしく対応してくれるアキちゃん・・情けない。「金は払ったか」「店で暴れてないか」といつもながらの確認をする俺。この電話をおえた時点で「やるべきことはやった」。何回と重ねた悲しみの記憶への旅は今回も終わった。呆然となりながら「白骨の湯」に入りました。風呂の前に転がっていた「須賀敦子全集第2巻」を風呂の友にしました。須賀さんのイタリアはいつも静謐な美しさに満ちている。今日読んだのは「トリエステの坂道」のなかにはいっている「雨のなかを走る男たち」だ。悲しいイタリアの男トーニのことが書いてあった。いつも家族に迷惑をかけるちょっと知恵のたりない暴れ者のトーニ。でもまわりは完全に見捨てることもできず「ああ、トーニがあそこにいる」とみている。どこかにいってもふらっと帰ってくる。鍵をもらえず家族のアパートの前にうずくまるトーニの姿に酔い潰れた自分が重なる。俺を囲んでいたふたりの大好きな友達、夫、娘・・。迷惑をかける立場と迷惑をかけられる立場は年をとってくるとだいたい固定してくる。そしてかけられるしっかりした人はかける立場のどうしようもない人間にどこか興味をひかれる。須賀さんも書いていた。「その夜を境にして、トーニへの興味が私のなかでぶつぶつと醗酵しつづけた」「いちどでいいから、ゆっくりトーニを見たい、そんな思いが私のなかで濃さを増していった」気持ちが醗酵したり、濃さをましたり、まるで酒のような表現だと俺は風呂の中でぼんやり思う。須賀さんは酒で失敗したことがあっただろうか。
 
 せめて今日はいろいろご飯をつくろう。キャベツのトマトスープ、コンビーフごはん、点点の餃子、時じゃけも焼いた。学校から帰ってきた娘とキャベツのトマトスープをいっぱい飲んだ。二日酔いに最適だ。子供の健康にもいい。ナイススープだ。「ごめんね」といったら朝口をきいてくれなかった娘は「このスープおいしい」とぽつんといった。
須賀敦子全集 第2巻 (河出文庫)

今日はいっぱい本を買った 貧乏なりに・・

新潮 2010年 03月号 [雑誌]

少し前に新聞広告でみて「手にいれたいな」と思ってた。「新潮 1267号」購入。「小説家52人の2009日記リレー」という特集があったので日記フェチの俺としてはたまらなく読みたかったわけです。大江健三郎から始まって古井由吉で終わる。半分くらいまで読んだ。
 バイトしてる池袋L書店で週に1回は集中的に買い物をする。集中的といっても貧乏なので基本的にハードカバーはNGで雑誌と文庫本を数冊買う。「新潮」は真っ先に探したけど、発売してからちょっと間があいたし、地味な文芸誌だから「ないかな・・」と半ば思っていてあんのじょう文芸誌の棚には積んでも、面だしにも差しにもなっておらず、ちょっとがっかりしたらもっと特等席のそのコーナーの前平台に積んであって驚く。やはりL書店あなどりがたし・・。かなりの頻度でこの雑誌売り場で働いているのにそんな事も気がつかないで駄目な販売員だと反省する。とはいえ販売員の目でみる職場と、仕事をおえ客として味あう書店風景は別物で、販売員としては「また売り切れたか・・今度いつ入るか・・」やきもきするJJ(爆発する東方神起!!)今月号の前も客としては素通りし、30分くらい違う本の海を歩く。
 今日かったのは「週刊江戸1号」と「新潮1267号」と文庫は文春文庫「楽園 上下」宮部みゆき講談社文庫「救急精神病棟」野村進と これがほしかった!新潮文庫「世界ぐるっとほろ酔い紀行」西川治。 帰りの電車でまず「江戸」を読み始め、家の駅の5駅程前でだいたい読み終わったので、待望の「新潮」に移り、やっぱおもしろいなあと思いながら、家でご飯を食べながらまた読み、風呂でまた読み続けという具合。それぞれの作家が1週間ずつ日記をかいていて、それが1年分続くという趣旨。詳しくはまた全部読み終わったあとで書きたいけど、それにしても柳美里の徹底した暗さとわがままぶりはすごいと思う。全然ファンじゃないけどおもしろい。やはり作家は普通ではだめだなと思う。先日「あの人がこんなもの書くなんて」と驚愕していた金原さんは実は実際子供を産んでいて、あの小説を地でいく毎日を送っていた。能天気で観念的な男の作家の日記と比べやはり女は大変だなと思う。特に子供を持つ女作家は気が狂う思いをみんなしてるような気がする。創作と逃げられない現実の間をいったりきたりしたらこう・・なんというか、エアポケットに入りこんでしまう辛さがあるだろう。しかしそんな母親を持つ子供も大変だよね。特にYさんの子供には同情します。

映画「かいじゅうたちのいるところ」を見ました。

かいじゅうたちのいるところ

騒ぐ子供が苦手だ。あーうるさいと苦々しく思う。児童書売り場が時々職場だったりしてよく見かける光景で感心するのだが、俺なら「黙れ黙れ黙れ!」と百回くらいしかりつけるような子供のうるささにも平然と笑っている親がいる。腹は全く立たない。こういう親でいたほうが子供はのびのびするのだろうなと思う。電車の中だともちろん腹ただしいのだが、そこは子供の場所の絵本ショップだからね。でも自分が親ならただのいらだちでどこであろうと「うるさい!」といってしまうだろう。というか過去自宅でもそうだった。とにかくうるさいのが嫌いなのだ。あとしつこいのもいや。子供はおうおうにして延々と同じ言葉、動作を繰り返す。そしてこちらにも強要する。子供と一緒にする手遊びとか、しりとりとかじゃんけんとかが本当イヤ。だからうちの子供たちは不幸だと思う。我慢せねばと時々思ったのだが我慢できなかった。未熟な親だ。
そんな要素満載の映画をみました。また娘とみた。「かいじゅうたちのいるところ」。絵本は大好きだけど、実写になると暴れるかいじゅうが本当にうるさい。最初は、実写のかいじゅうたちのあまりのみごとさに(絵本生き映し)声をのんだのだが、見てるうちになれてきたら、そのへんの子供にしかみえなくなって、「あー本当子供ってうるさいな」と思わざるをえなかった。意味なく叫び破壊しお互い殴りあいその合間にげらげら笑う。動作がしつこい。理屈が通らない。映画の中にいたら俺は大地を踏みしめ「うるさいうるさいうるさい」と叫んでいた事だろう。そして大きな怪獣たちに(子役のマックスの3倍くらいある。その大きさもリアルだ)すぐに食べられてしまったことだろう。がみがみいう奴なんてみんな食べられちゃうのだ。かいじゅうたちのいる島では、過去「おうさま」になっていたものたち(正体はわからない)の骨になった死体が累々と転がっている。そしてそこに残された王冠を「ぼくはおうさまだ」といったマックス少年はかぶせられる。骨の中から王冠を拾い上げたかいじゅうに「それ・・前の王様の・・?」と聞こうとするマックスだが、すました顔のかいじゅうに無視されてしまう。怖いシーンだ。導入部分でこそ大人たちの事情にまきこまれ、イラつき孤独を感じるマックスであるが、映画の大半をしめるかいじゅうのしまでは本当に子供しか存在しない時間が流れる。延々とうるさい。そして延々といらいらする。子供は子供で、つまりかいじゅうはかいじゅうで悩んだりする。しかしそのいらだちを理屈では解決できないからまた暴れる。子供って本当そうだよなと思う。そして自分もそうだよなって思う。俺はかいじゅうにより近いと映画をみて気づかされる。だから子供が嫌いなんだよな。自分が子供だからね。(酒呑んで暴れるー気持ちでー俺ってかいじゅうになってるんだよなきっと。)この映画をおもしろく見れる人ってみんなそう思うんじゃないかな。子供って全然明るい存在じゃない。子供っていつもいらついててもがいている。ここにはねずみ王国ディ●●―の嘘くさい明るさなんてひとかけらもない。とてつもなくいらいらさせられ、時には退屈だったけどとても素敵な映画だった。
映画館をでて娘と「すげえ暗い映画だったね」と声にだして確認しあう。さらに一緒にいた夫はひそかに泣いていたようだった。俺は泣かなかったけど気持ちはなんとなくわかった。絵本を読みなおしたかったけど、混濁の我が家でどうしてもみつけられなかった。翌日職場で仕事終わりに読み直したら、絵本はとても明るかった。かいじゅう踊りも突き抜けた明るさだ。絵と動画って与えるものが全く違うなあ・・でも絵本の作家センダックはこの映画をとても気にいってるらしい。きっと絵本の明るさには映画の暗さがところどころひそんでいるんだろう、と思う。そこを隠しているからセンダックの絵本は素敵なのだ。