映画「かいじゅうたちのいるところ」を見ました。

かいじゅうたちのいるところ

騒ぐ子供が苦手だ。あーうるさいと苦々しく思う。児童書売り場が時々職場だったりしてよく見かける光景で感心するのだが、俺なら「黙れ黙れ黙れ!」と百回くらいしかりつけるような子供のうるささにも平然と笑っている親がいる。腹は全く立たない。こういう親でいたほうが子供はのびのびするのだろうなと思う。電車の中だともちろん腹ただしいのだが、そこは子供の場所の絵本ショップだからね。でも自分が親ならただのいらだちでどこであろうと「うるさい!」といってしまうだろう。というか過去自宅でもそうだった。とにかくうるさいのが嫌いなのだ。あとしつこいのもいや。子供はおうおうにして延々と同じ言葉、動作を繰り返す。そしてこちらにも強要する。子供と一緒にする手遊びとか、しりとりとかじゃんけんとかが本当イヤ。だからうちの子供たちは不幸だと思う。我慢せねばと時々思ったのだが我慢できなかった。未熟な親だ。
そんな要素満載の映画をみました。また娘とみた。「かいじゅうたちのいるところ」。絵本は大好きだけど、実写になると暴れるかいじゅうが本当にうるさい。最初は、実写のかいじゅうたちのあまりのみごとさに(絵本生き映し)声をのんだのだが、見てるうちになれてきたら、そのへんの子供にしかみえなくなって、「あー本当子供ってうるさいな」と思わざるをえなかった。意味なく叫び破壊しお互い殴りあいその合間にげらげら笑う。動作がしつこい。理屈が通らない。映画の中にいたら俺は大地を踏みしめ「うるさいうるさいうるさい」と叫んでいた事だろう。そして大きな怪獣たちに(子役のマックスの3倍くらいある。その大きさもリアルだ)すぐに食べられてしまったことだろう。がみがみいう奴なんてみんな食べられちゃうのだ。かいじゅうたちのいる島では、過去「おうさま」になっていたものたち(正体はわからない)の骨になった死体が累々と転がっている。そしてそこに残された王冠を「ぼくはおうさまだ」といったマックス少年はかぶせられる。骨の中から王冠を拾い上げたかいじゅうに「それ・・前の王様の・・?」と聞こうとするマックスだが、すました顔のかいじゅうに無視されてしまう。怖いシーンだ。導入部分でこそ大人たちの事情にまきこまれ、イラつき孤独を感じるマックスであるが、映画の大半をしめるかいじゅうのしまでは本当に子供しか存在しない時間が流れる。延々とうるさい。そして延々といらいらする。子供は子供で、つまりかいじゅうはかいじゅうで悩んだりする。しかしそのいらだちを理屈では解決できないからまた暴れる。子供って本当そうだよなと思う。そして自分もそうだよなって思う。俺はかいじゅうにより近いと映画をみて気づかされる。だから子供が嫌いなんだよな。自分が子供だからね。(酒呑んで暴れるー気持ちでー俺ってかいじゅうになってるんだよなきっと。)この映画をおもしろく見れる人ってみんなそう思うんじゃないかな。子供って全然明るい存在じゃない。子供っていつもいらついててもがいている。ここにはねずみ王国ディ●●―の嘘くさい明るさなんてひとかけらもない。とてつもなくいらいらさせられ、時には退屈だったけどとても素敵な映画だった。
映画館をでて娘と「すげえ暗い映画だったね」と声にだして確認しあう。さらに一緒にいた夫はひそかに泣いていたようだった。俺は泣かなかったけど気持ちはなんとなくわかった。絵本を読みなおしたかったけど、混濁の我が家でどうしてもみつけられなかった。翌日職場で仕事終わりに読み直したら、絵本はとても明るかった。かいじゅう踊りも突き抜けた明るさだ。絵と動画って与えるものが全く違うなあ・・でも絵本の作家センダックはこの映画をとても気にいってるらしい。きっと絵本の明るさには映画の暗さがところどころひそんでいるんだろう、と思う。そこを隠しているからセンダックの絵本は素敵なのだ。