風呂で思索することに救いを求める

黄泉の犬 (文春文庫)

今日のお風呂の友は藤原新也さんの「黄泉の犬」(文春文庫)でした。この本は一気に読むのではなく、考えながら少しずつ・・のタイプ。読み始めてから3日くらいがたっていてまだ全部読み終えていないのですが、濃いですね。これまでの自分の藤原さんのイメージというのは、写真は青空を背景にダリアの色彩が強烈という極彩色、そして、旅人としては猿岩石の原点というものでしたが、すみません・・一緒にしてはいけなかった・・すごく思索している藤原さん。インドへの知識・思いが半端ではなく、放浪経験がそのまま人間形成につながっている稀有な方でした。本書の中で、自分にインタビューする東大生に真剣に自分のインドでの経験を語り何かにやにやされ、「どうして笑っているの?」と不審がる藤原さんに帰ってきた答えが「猿岩石みたい」ということで、怒りを表す場面があるのですが、はあ・・世間のイメージのリアルさがここで表されており、自分を反省しつつも笑いました。しかし藤原さんのすごいところって、「猿岩石みたい」といわれたこんなエピソードをつつみかかさず書きまたそれを思索してしまうところだと思います。
 かつて多分自分が小学生高学年くらいから(ということは1970年代にはいってから)思索することはダサい(死語)ときめつける流れがあり(自分たちの世代的に)それはずっと今日まで続いていたような気がします。「白け世代」(死語)と断言されてきた自分たちもはや50歳・・このまま思索しないのはやばい、生き残れないとようやく気がついた今日このごろです。つまり年をとって体と気力が衰えてくると、勢いだけで生きるのは難しいので、考えることで生き続ける強さを心につけていかないといけないというのが切実な実感としてあるのです。それは全部が年齢のせいなのか、それともこのあまりにも暗い時代のせいなのか同時にあまりにも暗い自分の境遇のせいなのかーわかんないんだけど、以前読んでいたら流していただろう藤原ぶしがお風呂で身にしみる今日この頃です。それにしてもあのころすごく自分の気分によりそっていただろう言葉、白けるとかダサいとかがどうしてまたたく間に死語になってしまったのか・・死語になる言葉の命って何なのか・・そんな事もつらつら考えた風呂タイムでした。
 最近何を書いていいのかわからなくなり、ブログをしばらく更新していなかったけど、せめて風呂で読んだ本くらいは書き続けようと思う2010年。酒は何か最近楽しくないんだよねーなんだろう・・「東京人」の太田和彦さんの渋谷「のんべえ横丁」の文章を読んで楽しくて素敵で衝撃を受けました。太田さんはすごい・・呑み空間をこんなにすてきに書く人はいない・・といつも思う。一生ささげる師匠と改めて思いました。銀座を書いた「悦楽の銀座酒場」(文芸春秋)もとても素敵でこれは御洒落な太田さんの独壇場だなって思ったけど、その同じひとがあの「のんべえ横丁」をこんな風にかけるなんて・・結局太。田さんは酒のむこうにいつもひとをみていて、その視線がものすごく温かい。酒の味をただぐだぐだ語る人ではない。太田さんを「酒の知識人」ととらえる人もいるかもしれないけど、違うんだよね。それに比べて自分は全く最近楽しく酒を呑んでいないし、こんな表現もできない・・ちょっと酒に関してはスランプかも。早くまた酒と友達に帰りたいです。


東京人 2010年 02月号 [雑誌]